口にしづらい言葉
Obsidianを『第二の脳』と見立てる道中、かならず直面するのが「口にしづらい言葉」だ。
よく言う「放送禁止用語」のようなものから、人道的に口にすべきではない言葉、直接的な性用語、英語圏のフォーレターワードなどなど、この手の単語は枚挙に暇がない。
そういった直接的な言葉ではなくて、多くの人には普通に使える単語でも、自分にとっては聞きたくない場合だってあるだろう。良くも悪くもそれらの言葉が持つ印象は強く、生きている限りは個人の中で増え続け、減ることはあまりない。
そういった言葉に縁のない人もいるかもしれないが、それはごくごく一部の特権階級、または深刻な隔離環境にいる人に限られる。多くの人は自らを形作る言葉群にこの手の単語を挟んでいるはずだ。
または僕のように「むしろ興味津々」の人だって少なくはないはずで、そういった感心できない人たちが『第二の脳』を始める際は、率直にスタートすればこの手の単語が目白押しになるはずだ。
で、それを実際にやってみると、思ったよりきつい。
口に出来ない言葉を書いた事実。それを毎回見せつけられるのは時間差でボディーブローのようにどんどん効いてくる。
なんだか自分の恥が石碑になってしまったようで、見るたびに消したくなる。というか現在、見つけるたびに消して回っている。しかし単語数が1700を超えてくると、書いたこと自体を忘れていることも多く、それらの追跡も楽でない。おそらくまだ、何個かの単語は地雷のように眠っているはずだ。
結論としては、口にしづらいことは『第二の脳』に転写しないほうがいい。
たとえ、その結果「ええかっこしい単語群」になったとしても構わない。本来の自分なんぞより、よそ行きの自分でいいじゃないか。
一日に何度も立ち上げるアプリだ。その度にイヤなものを見せられるよりはよっぽどいい。
Obsidianを立ち上げること自体が嫌になるのは、現時点ではあまり望ましくない。しかし、いつかアプリへの依存が深刻化した際、強制離脱の手段としてはいいかもしれない。
打倒・人間
グラフビュー上で多くのリンクを獲得した言葉は、より大きく表示される。
僕のグラフビュー上で、常に太陽のような別格の存在感を放つ言葉は『人間』だ。気づいたらかなり目立つ大きさになっていた。
そうなるのも当然で、たとえば個人名を入力した際、名前以外思いつかない時は『人間』にリンクすればとりあえず繋がりを確保できる。
どうやらそうやって「逃げの手」を何度も繰り返していたらしく、その結果『人間』は、ここまでの大きさになってしまった。
これだけ目立つ存在になると、それまで機械的だった入力作業に、ある種のバイアスがかかってくる。やっぱり気になってしまうのだ。
気持ちを掘り下げてみると、相反する心情が真っ二つに分かれる。
まずは、「打倒・人間」だ。
こんなに肥大した人間愛にグラフビューを支配されてはいけない。そのためには他の言葉を大きくして、どうにか均衡をはかりたいという気持ち。
その一方で「ラスボスを育てたい」という気持ちも同じくらいある。いずれ倒すべきラスボスは、生半可な手応えではいけない。ならばと個人名が登場するたびに、積極的に『人間』へのリンクを投入し続ける。現時点ではこの傾向がやや強いため、『人間』はますます肥大化の傾向にある。
自作自演もいいところだが、もはや習慣になりつつある「連想のリンク作業」は何も考えないことが常態化しつつあるので、現状では思ったよりも恣意的な流れになっていない。実際のところはたまたまリンクの終着点で「あ、また人間だ」と思いながら繋がりをひとつ増やしてしまう、といった程度だ。
現時点でもかなりの格差が生じているが、果たしてこの星の覇者『人間』を打ち倒すことが出来るのか、全てが自作自演の世界の中、若干ハラハラする気持ちでグラフビューを見守っている。
Obsidianの遊びかた 3
戦争・美空ひばり・百円・葬式・ビル・ヤクザ。
この単語たちはリンクで結ばれていないが、並べて表示されると意味が浮かび上がってくる。
美空ひばりとヤクザが同一画面に、というのもドキドキするが、二者間に葬式という単語が挟まることで含みが生まれている。
Obsidianのグラフビュー上では、リンクした単語同士が磁石のように反発する。その結果、あちこちで反発した単語が隣り合うことになる。
その配置にどれだけ偶然性が絡んでいるのか、自分にはよくわかっていない。ただ、全て自分が入力した単語で、全て自分が(別の単語と)結んだリンクを、Obsidian内の慣性でビリヤードのように弾いた結果なので、思ったよりも偶然性は低いような気がしている。
グラフビュー上ではこういうことが頻繁に起こる。
最初は驚いていたけれど、落ち着いてみればObsidianは自ら『第二の脳』を謳っている通りの働きをしただけだ。
脳内の単語同士が自分に心地よく結びつけば、報酬系が作動し、その結びつきは強化される。
それらの働きが一旦『第二の脳』に出力され、フィードバックでこちらの脳内にある報酬系が作動し、一連の流れは思い出としてキャプチャされる。
結局は脳内で常に起こり続けていることのほんのひとかけらを第二の脳に出力したに過ぎず、この行為を挟むことで脳の動きとしては壊滅的な非効率となるが、この流れが可視化されることで報酬系は再び作動する。
つまり、楽しい。
これをゲームと呼んでいいのか、まだ落ち着いて考えられない。
しかし、少なくとも無目的にスマートフォンをいじって楽しんでいるのは、はたから見ればゲームで遊んでいるようにしか見えないはずだ。
Obsidianの遊びかた 2
Obsidianは『第二の脳』を謳っている。
テキストファイル同士のニューラルネットワークを『脳』 に喩えるのならば、 Obsidianはその様子を端的に図示してくれる。
ブログの画像に使っている丸いボールのような画像は、 それらのネットワークを俯瞰したものだ。 画像の時点では1500ほどの言葉がリンクで結ばれていて、 その数は現在進行形で増え続けている。
これを『第二の脳』として自分が受け入れるには、 入力するテキストが自分の内側を経由しているかどうかが肝になる 。そのために、コピーペーストは一切使わない。 ググらないと意味がわからない言葉は使わない。 言葉そのものの質はどうでもいい。内から出る単語、 自らの思考で繋いだ関係性が線で結ばれ、それが増え続け、 やがて綾をなし、次第になんらかの形として見えてくるとだんだん「 これが第二の脳なのかねえ」と思えてくる。リンクで編まれた球体がうっすらとした説得力を放ち始める。
言葉同士のリンクする様子を可視化したものを「グラフビュー」 と呼んでいる。グラフビュー上では、 多くのリンクを獲得した言葉は、 その数に応じて大きく表示される。 なんとなくリンク線に強い重力が発生しているようにも感じる( たぶん気のせい)。
リンクの数が増えるほど、グラフビューは正円に近づき、 関係濃密な円の内側が色濃く表示されると、 なんとなく立体的に見えてくる。
最終的には星のような、受精卵のような球体になる。
第二の脳が星や受精卵に似ているのはなかなかにロマンチックだ。 それが当たり前のような顔をしてしれっとスマホの画面に収まって いる様子は妙に愛おしく、 それを見ているだけでもこのゲームを遊んだ甲斐があった、 ようにも思える。
あとはRAMが許す限り、星の体積は増え続けるはずだ。 現在の1500語で既に動作が重くなっているので、 早々にスペックの限界が近づいているのかもしれない。
(そもそもそんなことをするために作られたアプリではないので、 しょうがないのだけど)
Obsidianの遊びかた 1
そもそもObsidianはゲームではないので、 遊びかたもなにもないのだが、 あくまで自分が遊ぶ場合はこのような感じになる。
・ファイルを作成する
・ファイルにタイトルをつける
・ファイルにリンクをつける
以上の三つだけ。これをひたすら繰り返すのだ。
メモアプリなので、 テキスト形式のファイル内には本文をいろいろ書くことが出来る。 最初のうちはコメントを書いていたのだけど、 小賢しく思えてすぐにやめてしまった。 今はトピックを充実させることよりも、 リンクを作る素早さを重視している。
Obsidianの素晴らしい点は、ファイル作成→ タイトル→リンクの段取りがめちゃくちゃスピーディーで、 どんどん次へ行けるところだ。
リンクを作る「素早さ」は、 行為に思考を挟まないためにはとても重要だ。
できるだけボーッと、しょうもない連想が浮かんだら、 それがリンクの言葉兼、次のファイル名となる。
要はフロイトの自由連想法だ。
しかし治療目的ではないので、潜在意識にも抑圧にも注視しない。 マーケティング用途もない。正解もゴールもないので、 ただただボーッと連想を続け、それを記録し続けるだけだ。 自分が納得できるリンクなら何だっていい。
最初のうちは、そこに意味や目的、 もしくは自分の個性を挟もうとしてしまう。 頭の良さそうなボキャブラリーや、ひねりの効いたリンクなど、 自分的なファインプレーをかましたくなる。
しかしファイル数が増えてくると、 だんだんそういうことはどうでもよくなってくる。 おそらくは百個もリンクを作れば、 出てくる連想は退屈で陳腐なものになってくるはずだ。 実はその陳腐さ、気楽さがとても重要で、「こうしてやりたい」 というバイアスがかかると、すぐに手が止まってしまう。 延々と自転車操業のように連想を続けることがこのゲームにおける「 プレイ」なのだ。簡単な言葉ほどプレイは続く。
(例: 山→川→水→飲む→ジュース→オレンジ→色→青→空)
この例では道は一本だが、それぞれの言葉からリンクを発展させ、 好きなように繋がりを広げてゆく。上記の例では『色』 からのリンクは『青』だけだが、他にも『赤』『黄』『緑』など、 無数の分岐を作れる。
しかし、人は可能性が無限だと投げ出してしまう。
それを防止するために、自分だけの曖昧なルールを決めている。
不思議なもので、 過去作成したファイルはほとんど頭の片隅に残っているようだ。 現在1500ほどのリンクを作成したが、連想をするうちに、 必ずどこかで以前作成したリンクに戻る。そんな時は「 円が閉じた」と解釈して、 また別の言葉から別のリンクを作ってゆく。
こういったあたりの個人内ローカルルールはどういう形でもいい。 ノールールでやれれば一番いいのだろうけど、 完全な自由はたぶん続かない。
ゲームを成立させるために自分で勝手なルールを決め、 時にはそれを破ったり反故にしたり、好き勝手にやると楽しい。 誰にも叱られない。
そうこうしているうちにファイルとリンクの数は増え続ける。
Obsidianはそれを平面上で俯瞰できるのだ。 そこからが本番だ。
最高のゲームを見つけてしまった
数日前に『Obsidian』というスマホ用のメモアプリをインストールした。
メモとして使うつもりでいじり始めたら、そのまま5時間ほどが経ってしまった。
翌日は休日だったので、起きている時間はひたすら触り続けた。10時間以上はいじっていたことになる。
そして今日が3日目。すぐに飽きると思っていたけれど、その気配は一切ない。
正直、面白いのかどうかもよくわかっていない。ただ、うっすらとした衝撃が絶え間なく続いている。
たぶん、自分にとって新しい何かなのだろう。だからまだ、上手に受け止め切れない。
それを言語化すれば記事のタイトル通り、「最高のゲームを見つけてしまった」となるようだ。
Obsidianはゲームアプリではない。
公式のヘルプによれば「Obsidianはマークダウンエディタであり、ナレッジベースアプリでもあります」と書かれている。
ググってみると、次から次へと技術系の聞き慣れない単語が溢れ出てくる。
どうやらテクノロジーに精通した人や、文化度の高い管理職の人たち、または論文を書く大学生たちが使うソフトのようだ。
とにかくはテキストファイルをたくさん作り、それをリンクで繋げるアプリだ。
今のところ、それくらいしか理解できていない。
触り始めてまだ3日目なので、見落としている機能があちこちにあると思うけれど、自分の用途としては基本機能でもう十分だ。
というか、「用途」はもはやどうでもよく、純粋なゲームアプリとして触っている。
同じような扱い方の人をググってみたけれど、まだ見当たらなかったので、ブログを立ち上げてみた。
もっとも自分にフィットしたゲームがそれ用に作られたものではなく、ビジネスツールみたいなメモアプリだったことに驚いている。
自分にとって「ゲーム」とは何なのかも、ここ3日ですっかり解体されてしまった。
先々このアプリを使い続けるのか、さらに危険なハマり方をするのか、それともじきに飽きてしまうのか、これからObsidianと自分の観察を続けてみようと思っている。