新たなる人間

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辺境から狼煙を上げた単語『闘争開始』は、プレーヤーの度重なるチート行為も虚しく、依然として辺境に留まるばかりだった。
そうなると「『人間』にリンクしない言葉だけで独自のリンク網を作り出す」という、この闘争における条件が、単語数が増えるごとにだんだん厳しくなってくる。要は作業ゲーから苦行ゲーに移行したのだ。

『つまらない』。これはゲームにとって死刑宣告のようなもので、早急に対処が必要だ。
プレーヤーは速やかに単語『闘争開始』への支援を打ち切り、戦法を変えることにした。
ゲリラ戦が失敗ならば、今回は内部から切り込もうという試みだ。

今回は『人間』と拮抗させるべく『新たなる人間』という単語を生成し、既存のリンク網に投入する。
かつて入力した単語のうち、相応しいものには片っ端からリンクを作成し、しばらく作業に没頭すると、新勢力『新たなる人間』は『人間』に拮抗しうる大きさまで成長した。速い。

今回の流れは、以前の『闘争開始』に比べると、同じチート行為でありながらも若干インチキの度合いは低い。前回とは違い一応の関連語にリンクをしているため、成長過程は若干オーガニックだ。
とはいえ、意識的にリンクを増やす作業は、度を越してしまえば退屈≒世界崩壊に繋がるので程々に打ち切る。

以降は連想生成中に、「これは『人間』とすべきか、『新たなる人間』とすべきか」を判断しながらリンクを増やすことにする。曖昧なルールだが、面倒くさくなればこの縛りもいずれ消えるだろう。
刺激と飽きは常に表裏一体だ。

『新たなる人間』の増強をする際、速やかとはいえ思ったよりも手間がかかったのは良い実感だった。
これはRPGにおける経験値稼ぎのようなもので、必要な強さを獲得するまでは、相応の対価(=時間)を払わなくてはならないという、既存のゲームにおける成長の王道だ。
目的を果たすまでは楽しいが、遂行後は途端に虚しくなるのも同じだ。頂上に居続けるのは決して幸せなことではなく、いずれ後発の誰かにその座を奪われて「それ」はようやく完成する。

遅れてきた『競争』

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中心主義に反旗を翻すため、第二の『人間』(現時点で最多被リンク語)に勝る引力を獲得すべく、強引に作成した『闘争開始』なる単語にひたすらリンクを集中させている。

しかし中心主義の引力は思いの外強く、単語『闘争開始』はまだグラフビュー上では埋もれたままとなっており、人為的に「指で引っ張って」円の外に連れ出さないと、レジスタンスとしての辺境ポジショニングすら果たせないのが現状だ。保護者の援助がないと己の立ち位置すら危ういというのは抵抗勢力としてあまりにも心もとなく、それ故に当方第一の脳に、薄い愛情めいたものも芽生え始めている。単語『闘争開始』の周囲には鼻息の荒い言葉たちがリンクされているが、現時点では前述の心もとなさにより、その鼻息の荒さすら可愛気に変換されている。いとおしい。支援者としては出来る限りの援助を続けるつもりだ。

以前の投稿でロジェ・カイヨワを引き合いに出したが、その際、氏が提唱する遊びの4分類、『競争』『偶然』『模倣』『眩暈』のうち、このゲームに『競争』は当てはまらないと書いた。

しかし現状はどうだ。ノールールの平和世界に、プレイヤー自らが『競争』を持込み、それまでの秩序に破壊工作を仕掛けている。しかも現状では敗色濃厚で、それなりのインチキ工作を仕掛けているにも関わらず、正直勝てる気が全くしていないという体たらく。

「自作自演の世界なのに、作者がインチキの反乱を仕掛けても治安維持は揺るがない」

ことが思い通りにならないと知った途端、Obsidianの世界に既存の意味での「ゲーム性」が浮かんできた。
今こちらが無理矢理結んでいるリンク群は、人工国家のように「イデオロギーの為には多少のアレも厭わない」という精神性の元に組み上げられている。

自作自演の世界がゆっくり傾き始めた。これは「おもしろさ」の始まりなのか、それとも単なる秩序崩壊なのか。

闘争開始

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日々拡大を続けるリンク、『人間』の肥大化などなど、Obsidian内に作られた『星のようなもの』は無作為に張り巡らされたリンクをその都度編みこんで、見事なまでに混乱なく整合性を保ってきた。
混乱なきシンプルな第二の脳は、外部化するに相応しいクリアさで今後も成長を続けるのだろう。


しかし、それでいいのか?


とうとう第二の脳にも反抗期がやってきた。
見えてきた流れと、やがて訪れる退屈さに反旗を翻すべく、まずは中心主義的なリンクをされていないピュアな言葉たちを第一の脳から集め、『闘争開始』を旗印として文脈関係なしにリンクを集中させる。文脈を用いた世界秩序を乱す行為であることは重々承知だが、いずれは我々の団結が多数派の文脈、すなわちリンクとなることと信じる。

以上の行為を我々の抵抗とみなし、これより闘争を始める。

 

まあ、やっていることはまさに「オルグ」だ。
上京間もない不安な新入学生の心の隙間に入り込み、体よく構成員化させていた先輩たちは、かつてのイデオロギーをいつまで保持できただろうか。60年代の学生運動家たちの末路を自分たちは知っている。
にも関わらず、2021年の言葉たちは負け戦に臨むようだ。

有機的な惰性から作り上げられた『人間』中心のネットワークに挑むには、2300余の単語とリンクしない、独立した単語を集めることが条件だ。

美しい中心主義の世界は正円となるはずだった。
しかし残念ながら、その脇にまるでニキビのような反乱分子が現れた。

プレーヤーでもある第一の脳は、しばらくこの反乱分子に肩入れする。
なぜかアプリの処理速度が格段に落ちたような気がするが、これはシステムの陰謀だと曲解し、闘争へのガソリンと解釈する。


…とまあ、こんな感じで、自作自演の世界ですら、安定と均衡は守りきれないようです。
こりゃ世界平和なんて夢のまた夢だわな…

 

癒やさないカウンセラー・リーディングしない占い師



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良いカウンセラーの条件は個性を出さないことだと思っていて、その点においてObsidianは最高のカウンセラーといえる。
といっても、Obsidianはメモアプリなので、何も考えていない。
何も考えていないものに意志を感じ始めたらいよいよヤバい兆候だが、その境界線上に面白さがあるのもまた事実だろう。

占いとカウンセリングを同列に語るのは双方から叱られそうだが、無知の強みで書いてみる。Obsidianが形どった星雲に目をこらせば、そこにはかつて自分が入力した単語が並んでいるだけだが、この、目の前に自分の断片が、ポン、ポン、と適当に置かれている感じは、良いカウンセリングを受けた感覚や、洞察力に長けた占い師が置く言葉の感覚と似ている。

ただ、カウンセラーや占い師も人間である以上、どうしても自意識の垢をゼロにはできない。というか、実際は肥大化した自意識に振り回されている人が多数を占めている。自称カウンセラー、自称占い師という単語から漂うヤバさが現状を象徴している。

Obsidianには自我はないので、怪しさが全くない。それが自分にとっては気持ちいい。
そこに置かれた言葉も、時間差で見返して「そうなのか」と思うだけだ。
関連性を自分で結べる並びであればそれも一興だが、良くも悪くも人情のベタつきがない以上、Obsidianというメモアプリが提示した(と錯覚する)ものは、こちらの内側に接着はされない。

 

『真に純粋な発見は、何の役にも立たないものだ』

 

格言めいたものを書いてみたが、もちろん、全く意味はない。
単語数は現在2300。まだアプリは正常に動いている。

HARUKA

過去にObsidianと似た感触のソフトがあった。
90年代後半のmacOSにはハイパーカードというフリーの開発環境がバンドルされていて、それで作られたと思われるフリーソフト「HARUKA」は、当時出回っていたフリーソフトの中では、飛び抜けてこちらの琴線に触れるものだった。

HARUKAは人工無能と呼ばれるオフラインのチャットボットで、プレイヤーの入力した言葉に対応した言葉で返す、会話シミュレータのようなものだ。
HARUKAは会話の端々で「わかりません」を繰り返す。そこで言葉の意味を入力すれば、次回からは相応の返事をしてくれる。あとはこの流れを繰り返す。

この流れはプログラムを理解できない僕でもなんとなく咀嚼できた上に、最初は全く要領を得ないチャットボットも、たくさんの言葉を教えれば、いずれ「まるで思考しているかのように」動作してくれるのではないかという夢を抱かせてくれた。

その後、どれくらいHARUKAに言葉を「貢いだ」のか、細かくは覚えていない。三百くらいは入力しただろうか。根気よく頑張ったつもりだが、どれだけ言葉を教えても、「いかにも用意されたものを返しています」的な返答に嫌気が差し、ついに根負けした覚えがある。こちらの片思いだったという訳だ。

結果は惨敗だった。しかしHARUKAに言葉を貢いだ日々の「ひょっとしたら、こんな簡単なことで知性のようなものを感じられるかもしれない」という、淡い夢のような期待感は、今でもうっすらと残っている。

その後ためしに、いくつか人工無能めいたものを自作して発表したが、今思えばずいぶんと恣意的で作りも荒く、HARUKAのような新しい世界への夢を内包するものではなかった。すこし反省している。

Obsidianに与えたエサ(言葉)は、そろそろ2000に到達する。
Obsidianは何の反応もせず、グラフビュー上ではただただリンクの海が広がるばかりだ。その無反応な世界は荒涼としているのに、なぜか20年以上前のHARUKAに対して夢見た、どこか淡い『知性のような何か』に似た手触りがある。

ルールはある。でも、なんでもあり

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これら一連の作業を他に喩える言葉がないので便宜上『ゲーム』と呼んでいるのだけど、じゃあそもそもゲームとは何なのかとwikiなどを調べ始めると止まらなくなってしまう。

ゲームについてそれっぽいことを調べようとすると、頻出するのが『ロジェ・カイヨワ』という人だ。80年代のサブカル雑誌でよく名前を見た気がするけれど、どんな人なのかはあまり気にしていなかった。

カイヨワは遊びを『競争』『偶然』『模倣』『眩暈』の4つに分類していて、今自分がやっているコレは、少なくとも競争ではない。残りの3つにはなんとなく当てはまるところがある。
この分類は複数が強弱をもってレイヤードされているらしく、さらにはこれが書かれた『遊びと人間』は1958年に発行されている。けっこう昔だ。2021年現在ではその幅が広がっていてもおかしくはない。要はなんでもありということか。

「ルールはある。でも、なんでもあり」

この感じは、自分が理想とするゲームに当てはまる。
マインクラフトとか、グランドセフトオートとかが近いのかもしれない(やったことはないけれど)。

ただ上記ゲームは、用意された世界限定の「なんでもあり」で、プレイヤー側には「お釈迦様の手の平の上」という感覚は既にある。その上でバーチャルを楽しむ。

それよりもう少し自分の感覚に近いのは、アスキーアートを使ったローグライクゲームたちの存在だ。
不思議のダンジョンみたいな進化形は別物として、元の『ローグ』を、個人の開発者たちが好きなように改造し、どんどん新たなルールを加えたり再編したり、個人のキャパシティ内であちこちの混沌が極まってゆく感じは見ていてとても心地いい。固有のグラフィックが存在せず、アスキーアートだけというのもルール再編の可能性を恒常的に含んでいて、閉塞的なのに不思議な広がりを感じる。

幼少期『ごっこ遊び』の最中、ワガママなガキ大将や、気まぐれなお嬢様などに勝手なルール再編をされた覚えは誰にでもあるはずだ。そんな時、せっかく守っていた共通認識が壊れた瞬間の「なーんだ。やめよっかな」という感覚は、外への興味が広がる小さな爆発力とも言える。
つまりルールの破壊は風通しを生む。これはこれで少し心地よい。

しかしガキ大将やお嬢様にとって、ごっこ遊びは未だ進行中なのだ。この曖昧なルール変更と世界の維持は、ひとりの世界では割と頻繁に行われる。だれだって個人になればお山の大将な訳で、退屈な登下校中は遊びを生み出し、ルールをぐちゃぐちゃに引っ掻き回しながら時間をやりすごしていたのだ。

自分はこの時の「やりすごし」が非常に楽しかった。
具体的な記憶はほとんど消えているが、楽しかったという体感は強く残っていて、今に至るまであらゆるゲームを遊んできたが、あの時の楽しみに通じるものはほとんどなかった。

Obsidianで『遊ぶ』際にルールはない。
ルールはこちらで勝手に決めれば、それはゲームとなり、競争のない一人遊びのルールはいつだって雲散霧消になる。
この曖昧さは、当時の強烈な「楽しかった」という記憶をくすぐり続けている。