ルールはある。でも、なんでもあり

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これら一連の作業を他に喩える言葉がないので便宜上『ゲーム』と呼んでいるのだけど、じゃあそもそもゲームとは何なのかとwikiなどを調べ始めると止まらなくなってしまう。

ゲームについてそれっぽいことを調べようとすると、頻出するのが『ロジェ・カイヨワ』という人だ。80年代のサブカル雑誌でよく名前を見た気がするけれど、どんな人なのかはあまり気にしていなかった。

カイヨワは遊びを『競争』『偶然』『模倣』『眩暈』の4つに分類していて、今自分がやっているコレは、少なくとも競争ではない。残りの3つにはなんとなく当てはまるところがある。
この分類は複数が強弱をもってレイヤードされているらしく、さらにはこれが書かれた『遊びと人間』は1958年に発行されている。けっこう昔だ。2021年現在ではその幅が広がっていてもおかしくはない。要はなんでもありということか。

「ルールはある。でも、なんでもあり」

この感じは、自分が理想とするゲームに当てはまる。
マインクラフトとか、グランドセフトオートとかが近いのかもしれない(やったことはないけれど)。

ただ上記ゲームは、用意された世界限定の「なんでもあり」で、プレイヤー側には「お釈迦様の手の平の上」という感覚は既にある。その上でバーチャルを楽しむ。

それよりもう少し自分の感覚に近いのは、アスキーアートを使ったローグライクゲームたちの存在だ。
不思議のダンジョンみたいな進化形は別物として、元の『ローグ』を、個人の開発者たちが好きなように改造し、どんどん新たなルールを加えたり再編したり、個人のキャパシティ内であちこちの混沌が極まってゆく感じは見ていてとても心地いい。固有のグラフィックが存在せず、アスキーアートだけというのもルール再編の可能性を恒常的に含んでいて、閉塞的なのに不思議な広がりを感じる。

幼少期『ごっこ遊び』の最中、ワガママなガキ大将や、気まぐれなお嬢様などに勝手なルール再編をされた覚えは誰にでもあるはずだ。そんな時、せっかく守っていた共通認識が壊れた瞬間の「なーんだ。やめよっかな」という感覚は、外への興味が広がる小さな爆発力とも言える。
つまりルールの破壊は風通しを生む。これはこれで少し心地よい。

しかしガキ大将やお嬢様にとって、ごっこ遊びは未だ進行中なのだ。この曖昧なルール変更と世界の維持は、ひとりの世界では割と頻繁に行われる。だれだって個人になればお山の大将な訳で、退屈な登下校中は遊びを生み出し、ルールをぐちゃぐちゃに引っ掻き回しながら時間をやりすごしていたのだ。

自分はこの時の「やりすごし」が非常に楽しかった。
具体的な記憶はほとんど消えているが、楽しかったという体感は強く残っていて、今に至るまであらゆるゲームを遊んできたが、あの時の楽しみに通じるものはほとんどなかった。

Obsidianで『遊ぶ』際にルールはない。
ルールはこちらで勝手に決めれば、それはゲームとなり、競争のない一人遊びのルールはいつだって雲散霧消になる。
この曖昧さは、当時の強烈な「楽しかった」という記憶をくすぐり続けている。